訪問歯科医えるさの日記

フリーランス訪問歯科医が診療していて気づいたことを書いています。

人生会議ノススメ〜人生の終わり方を話し合おう〜

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「人生会議」という言葉をご存知でしょうか。

簡単に言えば「人生の終わり方について話し合う」ということです。

下記のブログを拝見させてもらって、その趣旨がとてもよく書かれていると感じたのでリンクを貼らせていただきました。

kujira-zaitaku.clinic

 

人生をいかに終わらせるか。

その考えは十人十色。家族であっても考え方は違って当然です。

私も普段仕事をしていて、もっと皆さんにこの問題を普段から考えてほしいと強く感じているので、今回は「人生の終わり方」を考えることについて書いていきます。

 

人生会議は防災に似ている

日本にお住まいの皆さんは、家に防災グッズを備えているご家庭が多いのではないかと思います。

 

「防災」とは、日本の場合は主に天災に見舞われた際に命を守るために、その時の状況を想像して必要な準備をすることで、実際に起きた際になるべく慌てずに行動できるようにする、ということです。

 

「人生会議」は必ずいつかは訪れる最期の時の状況を想像し、どう過ごすか、何をして何をしないかを具体的に話し合い、その時に慌てずに行動できるようにするための話し合いです。

 

訪問の仕事をするようになり介護の現場に立ち会うと、ご本人が病気になり自分のことを自分でできなくなって初めて「どうしよう」と慌てて考えるご家族によく遭遇します。

 

人間てそんなもんだと思うんです。

失って初めて健康の大切さ、「普通」の素晴らしさに気づく。

今回のコロナもそうですよね。

 

だからこそ、備えることが大切なのです。

予期せぬ事態に備えずに遭遇した場合、大抵の人は慌てて考えた末に誤った選択をしたり、「抜けられない思考の沼」にはまってしまいます。

それは時にご本人が意思表示ができる時に話をしていたら望まなかったのではないか、という方向に進んでいってしまうこともあります。

ご本人が意思表示できなくなった場合、ご家族の意思をもとに話が進みます。でも、事前に話をしていなかったらご本人の意思はご家族も知り得ないわけで、それがご家族を混乱させ「思考の沼」にはまらせてしまうのです。

 

日本にお住まいの方は「防災」の大切さをよく知っています。

その強みを是非「人生会議」にも役立ててほしいのです。

 

家族でも察せないことはある

ご紹介したくじら在宅クリニックのブログにも書いてありますが、日本では何となく「死」の話をするのはタブーな雰囲気がありますよね。

そういった「口にするのは何となく気まずいこと」をお互い察して対処するのが日本の文化だと思います。

 

日本のそういった文化そのものは、私は素晴らしいものだと思っています。

「思いやり」は察することから始まると思うので。

 

でも、やはり家族でも違う人間なので、言葉にしなければ伝わらないことはあります。

それを察することができないのは人間として当然です。

 

日本人は時に「察する」ことを求めすぎることがあります。

普段の何気ない一コマならまだしも、人生の終わりの時は1回しかなく、人によってはとても短い時間しかありません。

「察する」ことに頼って終わり方が納得いかないものになったら、後悔してもしきれないと思いませんか?

 

大前提は「本人の意思が最優先」 

当たり前だと思うでしょうが、こんな当たり前のことが難しいのが介護の現場なのです。

 

以下は賛否両論あると思いますが、よくある例としてご紹介します。

皆さんもご本人、娘さんの立場になって想像してみて下さい。

※架空の例であり、特定の個人の例ではありません。

 

ご本人は80代後半。脳血管疾患や認知症のため意思疎通は取れない状態。

退院して在宅介護することになった。

KPの娘さんはとても熱心で、いろいろなサービスを使っている。介護保険で入れられる枠を超えて一部自費でもいいから入れたいと。

サービスがたくさんあるため、1週間予定でびっしり。

そんな中、入院前はもっと食べられていたが退院して食べられなくなったから嚥下評価をしてほしいと歯科介入の依頼が来た。

ご本人はADLが低下しており、元通りまでは戻らない可能性あり。

他のサービスとかぶらないためには訪問できる時間が限られるが、歯科が介入できる時間は他のサービスの直後でご本人の疲労が強く、反応が悪い。

娘さんの目指す目標を訊くと「入院前の状態に戻してほしい」

 

想像していただけましたか?

想像してみて、どのように感じましたか?

 

娘さんは少しでも元の元気な状態に戻ってほしいと考えており、そのためにサービスを沢山入れている。

でもご本人の様子を見ると、リハビリや入浴など体力を使うことばかりで疲れている。

 

娘さんの親を想う気持ちが悪いとは言いません。

子供としては親が衰えて死に向かっていることをそう簡単に受け入れられないのが普通です。

私自身、自分がその立場ですぐに腹をくくれるとは思いません。

でも、疲れ果てている親御さんの様子に気づいていますか?

もし意思疎通がとれる状態で、ご本人が「もう疲れた、これ以上はきつい」と言ってもその状況を続けますか?

 

娘さん、息子さんをお持ちの方

自分がこの状況だったらお子さんに何と声をかけますか?

自分にずっと元気でいてほしいと願っているお子さんに「もう無理」と素直に言えますか?

 

 

これが現実です。

この状況で「察する」ことがいかに難しいか、それを分かっていただきたいのです。

 

 

「死」を見つめることは「生」を見つめることでもある

 

くじら在宅クリニックの先生がブログの締めでおっしゃっている言葉がとても素敵なのでシェアさせていただきます

死について話し合ったとき、価値観の共有ができます。
あなたってそういう考えだったのね
死について話し合ったとき、もっと自分のことを知ることができます。
自分は何を大切に生きているのか

きっと人生会議は、いまの人生そのものも充実したものにしてくれることになると信じています。

 

人生会議が自分を含めた家族の人生を見つめるきっかけになることを、いち訪問医として願っています。